都落ちしてからだいたい3年半たった

# 入学してから壊滅するまで

  • 東京に出て初めの頃は、自炊もしつつ頑張って大学に通っていました。しかし、いくつかつらめの出来事がきっかけとなり大学にあまり通わなくなり、テストをすべて欠席したあたりからおかしくなりました。大学へ通うことが怖くなり、重い体を引きずって駒場キャンパスに出かけても同級生にあって何か言われるのが怖くなってすぐに帰りました。帰りの電車に乗る時の、自分一人ができそこないのように感じるみじめな気持ちや、ホームに入ってくる電車を見つめて楽になりたいと何度も思ったことを覚えています。
  • こうして1年が過ぎました。ずっと僕は自分の意志が弱いと思っていたので色々頑張っていたのですが、どうもこれは精神の不調では?ということに思い当たって近くの心療内科に行きました。ハズレを引きました。今なら分かるのですが、精神的な病に陥った人は、自分が正直に話せる人間と巡り合わないとかなりきつい戦いを強いられることになります。あまりそこの担当医は僕とタイプが合わなかったので、薬を服用していてもどんどん体調が悪くなることが言い出せずに、結局最後は通わなくなりました。
  • このあたりでSNSを消したり通知を切ったりしました。外界との接続を断ち切るといくらか気持ちが楽になりました。この頃の生活はひどいものでした。夜8時少し前に起きて近所のスーパーで半額になったのり弁当やプリンを買い、家に帰ってレンジでチンして、もそもそとのり弁当を食べた後にプリンを食べました。プリンを食べる時が一日の中で一番楽しかったです。当時やっていた採点バイトなどをやらなきゃなあと思いつつ、そんな気力はなくて夜の街を散歩していました。当時はIngressというゲームをしていて、深夜に散歩をしつつ夜景を見ながらきれいだなあと思ってふいに涙が出ました。明け方4時頃になってきたら眠くなって、コンビニでペペロンチーノを買いました。そばの植木によく酔っ払いが突っ伏していたのを覚えています。少し怖いなと思いましたが、深夜ゲームのためにうろうろしている僕も大概不審だったなと今では思います。当時は本当に味の濃いものしか舌が受け付けなくて、辛いもの、甘いものばかり食べていました。当然どんどん体調は悪くなり、寝込むようにもなりました。
  • 大学に2週間に一度くらいは通っていたのもできなくなり、当然のごとく僕は留年しました。正確には降年といって、2年->1年へと降格しました。21歳になるという年の、春の出来事でした。
  • このときは一日中座椅子に座って無料配信されているアニメや、Youtubeで音楽を聴いたりだとか、小説を読んだりだとか、心をかろうじて支えるために食べ物でも飲み物でもない生きるためのものを摂取しつづけていた気がします。このときは本当に何も食べられなかったりして、寝たら3日間寝続けて起き上がると日付がskipしていて驚くということがよく起きていました。死ぬんじゃないかと思ったのと、このまま野垂れ死ぬならそれでもいいかもなと思いました。
  • でもなんとなく死ぬことができなかったので、体が比較的動くときに大学の精神科というか、保健センターに予約を入れました。正確には学生相談所のようなところでこころの悩み相談を挟んで、そこの人を通して予約をしてもらいました。ここは非常にいい先生にめぐりあえて、つらいつらいと思いながらも薬を試して毎週先生のもとに行き、ちょうどいい組み合わせや強度を発見しました。いける、ここから少しずつやっていくぞというところで終わりが来ます。お金もなくなってきたので東京から地元に帰ることになったのです。僕としては東京の憧れの大学で、前期教養過程を出ることなく終わってしまったことは悲しく思いましたが、ひとりで暮らせる気もしなかったので、親の助けを借りました。
  • こうして僕は壊滅して、(東京からだけど)都落ちみたいなことになりました。最後に、お世話になった保険センターの精神科の先生が、「あなたには自分のことをよく分析できていて、その病気を抱えているからこそできることがきっとあるよ」と言ってくださったことを、今でも僕は大事にしています。失ったものの大きさに毎日後悔して苦しめられながらも、祈りとか願いに近い感情を、僕は今でも持ち続けています。

# 帰ってきてから3年半暮らした

  • 半年間はただ寝ていました。ずーっと寝ていられたのは環境のおかげで、その分だけかけてしまった迷惑の大きさを考えると一刻も早く一人で自立したいという気持ちになりました。しかし就職をしようと思ってもなかなかうまくは行かず、まだ療養期間だろうという気持ちもあって、ぼんやりと過ごしました。
  • 22歳になる春がめぐってきました。SNSを見る余裕が出てきたのでちらっと見ると友人たちは就職なり院なりを決めているようで、僕はからっぽだなあと感じて涙が出ました。このころ、お金になることで僕がやりやすいことはなんだろうと思っていて、当時機械学習が流行っていて、kaggleのチュートリアルをしたら案外おもしろかったので、ソフトウェアエンジニアやデータサイエンティストみたいな職につくことを目指し始めました。当時僕が考えたのは「数学が好きなら苦しくないだろう」「休み時間も勉強することが好きなら苦しくないだろう」ということでした。この勘は今でもあまり間違っていない気がします。きっかけはそういった生き残るためではありましたが、夏を過ぎたあたりにはコンピュータの仕組みを知ることが楽しくなってきて、大学に通って情報科学をきちんと学びたいという気持ちが強くなっていました。大卒がないと就職が厳しいこと、通い切ることはできないかもしれないこと、療養期間が必要なこと、もう僕にはだらだらしている猶予はないこと、色々な条件と環境から地元の大学に通うことに決めました。無事合格することができました。これが23歳になる春のことでした。
  • 最初は大学に通うことがテーマでした。健康を保ちつつ単位をとりつつ毎日休まず大学に通う、これは当たり前のことですが僕にはとても難易度の高いものでした。結果的に一年間で2日くらい風邪を引いて休んだ以外はすべて通うことができました。この間は学業のみに集中していたため、あまり成果らしいもの、自習などはできませんでした。こうして僕ははじめて、1年生のうちにとるべき単位を落とすことなく2年生に上がることができました。
  • 2年生に上がった頃からコロナウイルスが流行りはじめて、オンラインになりました。これは僕にとっては大学に通うという訓練ができない点で苦しかったですし、外に出なくなって気持ちもそんなに上向かなくなりました。しかし、このあたりで双極性障害による日常への影響はほぼゼロになっていて、日常生活は送れるし薬も減らしましょうということでお医者さんと相談しながら薬も減らされていきました。
  • また、夏にインターンに行けることになったのはとてもうれしかったです。ここまでの流れを見て分かるように、僕はずいぶんどん底を這っていて、社会復帰はもう無理じゃないかと思っていたので、ここで焦りから解放されてフラットに生きていくことができるようになりました。東京でイケイケなソフトウェアエンジニアになれなくても、地元のITではない企業など、どこかは僕のことを拾ってくれるんじゃないかという楽観的な要素が入ってきました。もちろん楽観的だけではいけませんが、楽観的な気持ちがゼロの世界というのはなかなか厳しいものなので、個人的には良い方向に作用していると思います。
  • そうして今に至ります。今僕は大学3年生で、今年25歳になります。双極性障害は治るものではないので今も一ヶ月に一回くらいのペースでお医者さんのもとに通っていますが、別にたいした話もせず3分くらいで終了します。それくらいには普通の人と変わらず精神的に健康になっています。お金はほとんどなくて、早く自立して親とか返すべき場所にお金を返さないといけません。技術的にはSREを目指していて、一方でコードを書きたい気持ちもあるのでサーバサイド寄りもいいなと思っています。大学3年生なのでこれから夏インターンに応募していきますが、全落ちしてもまあいいかなと思っています。数年前のひどい有様に比べれば、ここまで健康になったこと自体が奇跡のようなものです。劇的なことは何一つ起こらなかったし、地味でつらいことの繰り返し、親に助けられながら一日進んではまたどん底に落ちて絶望してやけくそになるような毎日ではあるけれど、それでも3年かけて壊滅した自分を3年半以上かけてゆっくりと直してきたつもりです。
  • これからも僕が体調よくいられるかというとそんな保証はまったくなく、別にこれは僕に限ったことではないと思っています。それでも、仮にまたどうしようもなく壊滅してしまっても、ゼロから、できることからひとつずつ、何度壊れても再度積み上げ続ければよいと思っています。