心地よいぬるま湯を抜けることへの耐性
ぬるま湯という視点から見た人生
僕は今でもなんで中退したんだろう?とよく考えます。つらいことを思い返すのは昔は苦しかったのですが、今では忘れることが怖くなるようになりました。過ちは忘れて過去は美化してしまいがちです。どろどろは忘れてしまいます。忘れた頃に、もう一度繰り返してしまったら目も当てられませんし、過去の自分に申し訳ないです。
ある視点では、大学に入って環境が変化して僕にとって居心地がよくなかったことが双極性障害につながり生活の破滅に至った原因かもしれないと思いました。高校はかなり人格者が多く、その温室に慣れていたからこそ僕は外に出たときにだめになってしまったのかもしれない。これだけが原因ではないのですが、この温室から抜け出してストレスがかかった状態が環境要因として存在しているとは思います。
では僕はもう別の環境にいけないのでしょうか?旧来からの親しい方からは、環境の変化がだめならもう一生実家で暮らすしかないじゃんという指摘を受けます。インターンの面接でも、結構中退に至るまでを詳しく尋ねられて、働きはじめが大変そうだねと言われます。もちろん向こうにその気がなくても、なんだか世界中から「一度失敗した者は二度目の失敗をしないようにじっとしてなさい」と言われているような気になってきて悲しい気持ちになります。
しかし一方で、このまま別の環境を避けて、もう一度病気がひどくなることを恐れて生き続けるのは果たして僕の人生や病気を治していく観点でよいことなのでしょうか?ぬるま湯に浸かりきった頃に突然変化が訪れることだってあると思います。そのときに取り返しがつかなくなるのでは?と思うのです。
そこで本題の心地よいぬるま湯を抜けることへの耐性です。
結局、環境の変化は否応無しに本人に訪れるので、普段からぬるま湯を出る素振りをすべきだと最近気づきました。いつも帰る道とは別の道を通って帰る、普段は同じ机でパソコンに向かっているから、今日は別の場所で作業してみる、そもそもパソコンから離れてみる、無意識に習慣としていることをリストアップして、今日一日はそれをやめてみる…そういう、環境の変化に耐性をつける素振りをしていこうと思っています。
コンフォートゾーンという言葉があります。ここでいう心地よいぬるま湯と同じ意味で、長い時間そこにとどまっていると心地よく感じてくる安全地帯のことです。よく成長曲線が最初は急激に伸びてそのあと停滞するから、別の分野に出かけて刺激を得て成長することにつなげよう、という文脈で使われます。僕は心理的安全性とか、とにかく心地よいということを金科玉条のように掲げていたので、それをやめて、個人の文脈ではコンフォートゾーンを抜けて環境変化耐性をつけることを意識していきたいと思いました。
散歩をしてみようかなと思います。前より体重が増加してしまったしなあ。あとはコンピュータの勉強ばかりするのをやめていこうと思います。就活最適化すればキーボードをいくら叩いても足りないくらいですが、僕は心と身体を優先したいので、別に希望のところにいけなくても、就職できなくても、それより長い目で見て大切なことをちゃんと手を動かして実行していきたいと考えています。
ソラニンっぽいですね。ゆるい幸せがだらっと続いたとしても、悪い種が芽を出してさよならになってしまうのでしょう。さよならをした先でもどこかでどうにか元気にやっていけると言い切れるようになりたいです。