静寂の中で育まれる自分の価値観

# 静寂の中にいる

僕は物心ついたときからよく本を読んでいました。幼稚園のときは絵本をたくさん読んで、小学校に上がったら読書マラソンという年間で読んだ本の合計ページ数を競う行事につられて小学校の小さな図書館にある本の9割方読み終えてしまうくらいには本に没頭していました。最後には学校の本はだいたい中身を知ってしまったので、月に一回やってくる移動図書館の本が楽しみだったことを覚えています。
 中学から高校にかけては数学が好きになってずっと数学をしていました。問題を常に頭の中に2,3個ストックしていて、特に整数の性質を調べることが好きでした。フェルマーの最終定理について知ってから、単純な問題構成の裏側にある理解できないほどの膨大な世界を美しいなと感じたこと、サマーウォーズという映画の影響で、大学の講義のPDFでRSA暗号を調べて全く分からなかったので高校数学を勉強して基礎を身につけていたことが関係していると思います。
 僕にはあまり友達と遊んだ記憶がなく、引っ越すことが多いこともあり今でも幼馴染のような昔からの自分を知っている相棒のような存在に憧れがあります。小学校の頃は近くのショッピングモールやゲームセンターに行く友人をどこか羨ましく思いながらずっと本を読んでいた記憶があります。実際には友人と遊んで秘密基地を作っていた時期もありこれらの記憶は完全に正確ではないのですが、それでも僕は常に一人で、静寂と共に時間を過ごしてきました。
 しかしいつからかこの静寂が離れていったようなのです。気がつくと僕はそれほど一人で過ごすわけでもなく、一人で過ごしていても何かが気になって集中しきれない、喧騒がすぐ近くにいる感覚をずっと持っています。これは現在では、「SNSを開始したこと」が原因なのかな、と自分の中で結論づけています。
 はじめてのSNSはFacebookでした。PCのメールは高校一年生からはじめて、少し操作に慣れてきたなという頃にFacebookの現在のMessengerに当たるものをPCで利用しはじめました。高校から帰ってきて、友人とチャットでどうでもいいことをずっと話していた記憶があります。
 大学に入ってTwitterをはじめました。他にもLINEとか色々やっていた気がします。この頃から情報を常に仕入れるようになり、寝る前にベッドでスマホを眺める習慣がつきました。Slackやdiscordでも通知が気になり、Twitterが楽しくなり、流れる人間模様が面白く、楽しくない課題は後回しにして、不安な将来のことはTwitterに思考を置くようにして...
 そうして完全に僕は静寂を失ってしまいました。
 常に喧騒に身を投じていると、様々な情報にさらされて、自己の相対化が進みます。僕はこの人よりは物をよく知っているな、僕はこの人に一生叶わないだろうな、そういう情報をかき集めて自己を他者との比較で投影して理解します。それと同時に、周りの価値観に影響を受けるようになります。みんなあれをやっているし、面白いし役に立つからあれは絶対にやった方がいい。強い人はここに行っているから僕もそこに行きたい。僕はここに興味があり、その道のプロはこれをしている人が多いから僕もこれを目標にしよう。僕は人よりも4年遅れていますから、必死に最短手筋や筋のいいやり方を探して情報を摂取し、流れに乗っていこうとします。自己の相対化は、行く先の絶対化を招くようです。
 これは何かおかしいと感じたのは割と最近のことでした。僕は本当は何がしたいんだろう?就活で時と場合を弁えた言葉と物語を語るよりも、もう少し身体性のある答えが欲しかったのですが、それが出せなくなっていました。
 SNSが原因なことは分かっていたので、Twitterから離れてSNSの通知を切ると、こんなに時間が有り余っていて世界は静かなんだなと感じました。たった1日だけ離れて自分の作業をしているだけで、静寂がそこにありました。
 結局、喧騒とも静寂とも付き合っていこうということなんだと思います。人間は文明の中で過ごしていても、常に光の中にいればおかしくなってしまいます。ときには暗闇の中で静かにぼんやりとすることが必要なように、きっと僕には静寂が必要で、この静寂の中でのみ自己の相対化を免れて、自分の世界を静かに作っていくことができるのでしょう。自分のペースで生きるということは、周りを見て明らかによいとされるセオリーや流行や必要不可欠に思われる過程それらすべてがどうでもよくなって、行く先は絶対これだという呪縛から放たれて、大切なものがひとつかふたつになった先のフリースタイルのことを指すのだと、僕は考えています。