自身の人生に、小さじ一杯ほどのゆるやかで身体性のある楽しい時間を追加したい

ここ最近は特に、YoutubeやSNSで他人の人生をお手軽に見ることができるようになってきた気がします。Facebookが登場した当時は高校のクラスくらいの輪で使っていたのですが、いまや僕もインターネットの片隅の一員です。自身のどうでもいい人生を流して、他人のどうでもいい人生を眺めて生きているな、ということを時折強く感じます。

それは単純に時間の無駄という点でネガティブにも捉えられますが、今日はポジティブな側面を眺めてみたいと思います。

他人の人生を眺めていると、結構雑に生きてもいいんだということを感じます。高校の時、遅刻は絶対ダメだし夢は叶えるものだし失敗は許されないものと思っていた頃と比べて、今ではたくさんの他人の人生を眺めて実は世の中はそれほどきっちりと完成されたものではなく、多くの致命的に見える失敗をリカバリーしつつなんとなく回っているということを理解してきました。遅刻したら説明したり謝ったりするべきだし、むしろ失敗したときにどういう挙動をするかが大切とも思います。とにかく、世の中は思ったより雑で、あくせく1人反省会をしている人はそんなにいないということが分かりつつあります。

他人の人生が雑だということを知り、また同時に自分の人生に足りないものも見えてきます。その中で、何か自分にとって参考になるものはないかと考えた時にひとつ、「身体性のある楽しみが自分の人生に欲しい!」という気持ちが湧いてきました。

例えば酔っぱらってギターを片手に友人と歌うような、そんな平和で幸せな時間が自分の人生にもう少し欲しいなと思うわけです。何かを好きになるという原動力は自身の人生を動かしてくれますが、それとは別にほんわかとした楽しさ、ゆるやかな優しい時間という形でなんの生産性もない時間を過ごし思い出を作りたい。

どうしてもSNSの中では息苦しさや強い主張や自己実現が目立ってしまいます。それは流れている情報が意図的であるからです。もっと意図的ではなく、身体性を持ち、なんにも繋がらない平和でゆるやかな優しさが僕には不足していることを感じます。別にそれで満たされたいわけではないのですが、小さじ一杯ほどでいいのでそれが欲しい。

YoutubeやSNSを通して様々な自身の人生の可能性を見ることができます。それらは眩しく光るものからびっくりするほど雑なものまで様々で、僕はその中から、ひとつ身体性のある楽しさを学び拾い上げていきたいと思うのです。

終わりに

僕は情報量を大量に扱っていると人に流す情報量も膨大になってしまって、閾値を超えて情報伝達があまり行われなかったり、負担を強いてしまうことに繋がることを知りました。敢えて情報量を完璧にせずに切り落としたものを初手で伝えることもカジュアルな会話では重要です。そういったことも雑な他人の人生から学んできた気がします。