永遠に感じる時点で色褪せていて、終わりを知った時から人生は輝く
この記事は DIE WITH ZERO 人生が豊かになりすぎる究極のルール を読んで個人的に考えた日記です。
普段はこういう自己啓発本じみたものにはあまり価値を感じられなくて読まないのですが、なかひこくんがRTしていたkagemikuさんという方が「この本は大体同意できる」みたいなツイートをされていて、割と僕が普段考えていたことと近かった&界隈の人が言うならそれほどハズレはしないだろうと思い、買って読んでみることにしました。2日くらいかけて読み切りました。
本の概要
人生で一番大切なことは思い出を作ること。お金を今しかできないことに使って経験に変換するとよい。理想的には死ぬ時に手持ちの財産がゼロの状態で死ぬことが理想だ。
老後のためにお金を取っておいて、死の間際の2週間に数十万を費やすとする。これは若い時に数ヶ月かけて貯めたお金だ。死の間際の高々数週間の延命のために数ヶ月若い時代の時間を消費するのは合理的ではない。その働く時間を経験に変えるか、働くにしても若いうちに金を経験に変えておいた方が人生の満足度としては高くなる。
ただお金を贅沢に使えという訳ではなく、死ぬまでにあと何年、元気に旅行に行ったりできる期間があと何年、のように意識した上で今しかできないことにお金を使って、お金と時間を思い出に変換しよう。
思い出したいくつかの昔話
そもそも僕は一回大学を中退している時点で後悔ありまくりの人生ではあるのだけれど、この本を読んでいくつか思い出すことがあったので書く。
ショッピングセンター
僕が小学生の頃は自転車で行ける範囲内にはお店が1つ、ゲームセンターが1つくらいのノリだったので、ショッピングセンターに行って映画を見たり、色々遊べるゲームセンターに行くには電車に乗る必要があった。
小学生の時はお小遣い制度がなかったので僕が使えるお金はお年玉だけだった。当時は1万円がもったいなくて、ほとんど使わずに半分以上を取っておいて、家で勉強したり図書館で本を読んで過ごしていた。
でも今考えると1万円くらいなら働き始めたら一日で回収できる額だ。そして今の僕に取っての1万円は、当時の僕にとっての1万円よりも価値が大幅に低い。
当時の僕は勉強を放棄すべきだったとは思わない。でも、もっとバランスを取ることを大事にして、闇雲に将来を不安に思って勉強をするのはやめて、不安に対する評価を行い、もっとやっておくべき冒険があったはずだったなあ、と思う。
カメラ
高校生になって、目標を達成して親からご褒美にもらったお金でカメラを買った。エントリーモデルのNikonの一眼レフだった。なぜか僕のいた高校ではカメラを持っていっても先生に特に何も言われなかったので、時々持っていって運動会とかで写真を撮った。友人と遊びに行く時もカメラを持っていった。これはかなり良い選択だったと思っている。
でももっと良い選択ができたように思う。あの時僕はなけなしの貯金をはたいて、親から金を借りてでももっと良いカメラを持つべきだったと思う。そしてそのカメラが擦り切れるまで写真を撮るべきだったと思う。
大学生になって、高校の時よりもっといいカメラを手に入れた。レンズもいいものを買った。でも撮るものがない。人生いつになっても思い出は作れると思うしそうであってほしいと僕は願うけど、カメラと被写体に関してはマジで高校の時がピークに来ていたと思うし、そこに全額betすべきだったと今でも後悔する。
昔話を踏まえて
後悔は戻らないし今悔やむことに時間を使うのは得策ではなさそうな気がする。だからもうちょい具体的にこれからの話を考える。
なんで後悔するんだろう?と考えた時、それは「今の生活がずっと続くと感じ、その延長線上に願いが叶う」という想定をするからだと思った。
高校の時は毎日教室のドアを開けて自分の席につく日々が永遠に続くかのように感じ、その延長でいつかいいカメラを手に入れて写真が撮れるようになったらいいなあと願う。でもその願いが達成される時に僕は教室のドアを開ける日々を送っていない。日々を永遠に感じる瞬間にそれは色褪せてしまう。終わりを知って、悲しくなって、そこから始まる人生に輝きが宿ると僕は思った。
今僕がぼんやりと「冬の温泉街でエモい写真を撮りたいなあ」と思うならこの冬に行くべきだし、「そのうち車で友人と撮影旅行に行きたいなあ」と思うのなら今すぐ免許を取りに行った方がいい。
願いは延長にかなえられるものではない。永遠の先に叶うものではなく、自然に叶う頃には既に遅すぎる。やりたいことは今すぐ迎えに行った方がいい。