思考は環境の影響を受ける
僕は数年前まで大学に行くということがとても高いハードルに感じていました。その時僕が心の拠り所にしていたのは「考えること」でした。当時の僕にとって思考は逃避であり、娯楽であり、生活でした。
今も僕は考えることがとっても好きです。そして思考は僕にとってある意味公理のごとく絶対的なものとして振る舞っていると考えています。だから、何があっても僕から思考することが取り上げられない限り僕は僕である、と考えています。
でもそれは本当にそうでしょうか?少し考えれば分かるようにこれは否定的に解決されます。今日はこのことについて幾分か言葉にできた気がするので、書いてみました。
思考は思ったより不確かである
大学に行くことがつらくて部屋の隅でじっとしていた頃は、何もしたくなかったのですが何もしないとそれはそれで不安に押しつぶされてしまうので、ずっと考え事をしていました。
何かを考える、ということは考えれば考えるほど一つの終着点に辿り着くように思われることがあります。これは暗に最良の結論の存在が仮定されていて、その結論に向けて思考を張り巡らせるようなものです。
僕からすると、思考を深くすることは当時の僕にとっては救いでした。なぜなら、大学に行っている同級生と自分を比較した時、思考の深さで勝っているのであれば、なんとなく僕もまだ真にゴミではない、ゴミではあるが本当の下位互換ではないと思えるからです。そういった意味合いで思考をし続けることがその時の僕にとっては救いだったように感じます。
それから時は経ち、僕はようやく療養期間を経て元気になってきました。ここ1年間は今までで一番元気だったと自信を持って言えます。それも無理して元気なわけじゃなく、自然体で元気な感じで無理のない感じです。
そのような状況に立たされた時、思考に変化が生じているのを感じました。
環境が思考に影響を及ぼしているのです。
楽観的な思考、悲観的な思考、様々に形容されることはあっても僕はなんとなく暗にたった一つの最良の結論を仮定して、そこに向けて思考を重ねているものだと思っていました。それは、「一枚上手だな〜」とか「僕のほうがよく考えていたかも」と言った言葉に現れます。
でも本当は思考なんて不確かで、時代に対して頑健ではなくて、一つの最良の結論なんてないのです。聞いたことはあるし頭では理解していたけどなんとなく納得できてなかったことが納得できてしまって、僕はこの世に確かだと思っているものをまたひとつ失ってしまったような感情を持ちました。
詰まるところ、思考することにそこまで価値はないと思うのです。環境が影響を及ぼすのなら、環境を変えても思考が変わるので、その環境で悩んで出した結論は別の環境では全く役に立たなくて、それよりも環境に作用した方が良い場合がたくさんあると、今になって思います。
それと同時に、当時の僕は思考することしか武器がなかったので、当時の環境で出した「思考には深さがあり、一つの最良の結論に向けて思考を深くする」というモデルはその時の僕にとって救いで、機能していました。だから、どうやら真に正しいことを言うならば「今の僕は環境が変わったことで思考そのものに対する姿勢が変わった」となるように思います。別に昔が間違っていたわけではない。
でも同時に少し儚さを感じます。結局僕が絶対的な拠り所にしていた思考なんて環境の前では吹けば飛ぶような存在で、未来に対して希望を持つのなら外に出て行動して人と関わることが最善だと思い込むし、未来に対して希望が持てず明日が思い描けないくらい辛いなら誰とも会話せず一人で思考を深くすることに意味を見出す、そんなもんなんだという寂しさを感じます。
やりたいことに対して思考は後付けでいい
前節から分かったことは以下のようになります。
- 思考は環境に影響される
- 思考は一つの最良の結果に向けて深く伸ばすものではない
だからたとえば、哲学や人生観の文脈で人にこれが最善だと提示するのはその人の背景をかなり理解していないとリスキーであることが分かります。全く違う環境の他人に自分の思考の結果は無意味である可能性がありますから。
結局、価値観、他人が言う「こうした方がいい」、一般的にこうした方がいいかなと自分が内から縛る感性、これらは全て一旦外した上で本当にやりたいことを考えて実行することが大切なように思います。
思考はその場合後付けでもよいと思います。なぜなら実行したことによって環境が変化してしまうからです。変わってしまった世界で評価を行う方が、変わる前の世界で変わった後の世界を評価しようとあくせく奮闘するよりも遥かに正確に評価ができます。
行動には意図があり、それは環境に影響されます。だからといって思考で自分の行動を縛って環境に抗って、「通例良いとされる意図を持った行動」を取るよりも、その時やりたいことに対して素直に動き、後付けで思考したらいいんじゃないかな、と今の僕は思います。
たとえば何がしたいか
最近は結婚する人が周りに増えてきたので結婚についてよく考えています。この思考に対する考えもその過程で演繹的に出てきたものです。
結婚は社会からの要請としてするのは相手方に失礼とか、彼女を作るの"作る"ってなんだよみたいな言説はSNSでよく見かけますが、それはその人の環境における理想であって、自分に対してそのまま適用できるかは不明です。自分が本当になりたい形を、環境に影響されながら、行動に移しながら考える必要があります。
立ち止まっている限りその世界についてよく知ることができても、別の世界も含めた広い世界に対して分かることは立ち止まっている限りできなくて、やはり何事も経験というのはそういうことなのかもしれないです。走りながら考える、も同じことを主張しているように思えます。
つまり恋愛とか結婚とかそういうドメインについていくら考えを張り巡らせても、その時の自分にとっての世界しか正確なことは言えない!ゴチャゴチャ考える前に行動に移して、行動してから思考を後付けで開始すればいい!!
終わりに
なんか安い結論になってしまってとっても不服です。でもとにかく思考のオーバーヘッドをなくしてゼロタイムで行動に移して、思考は行動後まで遅延させていこうと思います。