ボタンを手当たり次第に押せているか
最近RADWIMPSの曲をよく聴いている。僕は絶体絶命というアルバムがRADのアルバムの中では一番好きで、そのアルバムの中の一曲に君と羊と青という曲がある。
この曲を初めて聴いたのは中学生の文化祭の時だったと思う。文化祭の出し物movieみたいなやつを体育館で一挙放映するのだけれど、その中に君と羊と青のMVのパロディみたいなやつがあった。あまりに衝撃的すぎて家に帰って原曲を聴いた。YoutubeのMVを繰り返し繰り返し見ていた。
曲は思い出と結びついて、それ以降君と羊と青を聴いては当時の気持ちと風景を鮮明に思い出すようになった。絶体絶命の中にはグラウンドゼロという曲もあって、君と羊と青を聴いて未来は無限大だと感じながらグラウンドゼロを聴いて僕の進路はまるでレールに乗ったようなものだと絶望する。そういった、中学生や高校生特有の未来に対する期待と焦燥感を思い出す。
しかしふと我に帰って今の生活を見つめると、幸せではあるんだけどなんだかひどく遅いなと感じる。何を手に入れたいのか、どこに行きたいのかも分からず目をぎゅっとつぶって全力でがむしゃらに走るような、これから先何が待ち受けるか分からない暗闇に力一杯飛び込むような、それこそ人生に次々と現れるボタンが押せるのであれば手当たり次第片っ端から壊れんばかりに連打していくような、そういった生き急いだ感情と疾走感がまるで感じられない人生になっていた。ただ、ただひどくのんびりとして遅い人生の中でぼんやりとしている。
読みたい本を積むよりも、読みたい本を読み終える方が遅くなってしまったのはいつからだろう。勉強したい技術や、作りたいものもいっぱいあるはずなのに手をつける速度が全く足りないのはなぜなんだろう。もっともっとやりたいことはいっぱいあったのではないか?僕はいつからやりたいことに優先順位をつけたり、うまくやれるよう並び替えをすることに時間を使うようになってしまったんだろうか。
これまでも環境が思考の選択肢を規定するのだから、ある環境における思考は一度打ち切って行動に移した方がいいということは身に染みているけれど、さらにそこから進んで行動を思考よりも前に繰り出すということをやっていきたいなと考えるようになった。簡単に言うと、とりあえずやってみる、みたいなやつだ。
でも一方で思考から組み立てた方針が群青に繋がるのかはよく分からない。最近は自分の考えたこと全てがなんだかひどくありきたりで使い古されたものに見える。結局人間の悩みなどすでに答えが出ているものだから、ありきたりで使い古されたものでよいのだけど、そう見えてしまうということはきっと今の僕にとって新しいものではないのだろう。それは群青からは程遠い。
疾走感を生み出す群青を突き動かす衝動はなんだったのかと思う。中学高校の頃の選択肢の少なさ、世界が自分の半径数メートルの出来事で構成されている狭さ、逃げられないという感情、そういったものが自身を突き動かす要因だったのかもしれない。不可逆であるならばその感情を追い求めること自体が不可能で意味のないことなのかもしれない。
なんだかよく分からないけど生き急ぐ疾走感がここのところ足りなくて、取り戻すのか、新しく生まれるのかは分からないけれどその何かよく分からないものをずっと追い求めている。