人生はそういや短いんだっけ

人生は思ったより短く、瞬く間に過ぎて行ってしまいます。人生は短いからやりたいことをやる方がいい。そんな当たり前のことを念じて明日からは頑張ろうと思っても、日々を過ごすうちにその念はいつの間にか儚く消えていき、ふとしたときにまた人生の短さを思い出す。その繰り返しを一体後何回繰り返せるのでしょうか。あと何回繰り返したら、真に人生の幕を下ろすのでしょうか。

そんなことを思ってしまうのは、きっと数年前に友人が亡くなったことを今でも時折思い出すからでしょうか。日常は、当たり前のように明日も続くと仮定される日常は脆く、様々な幸運の折り重なった上に成り立っているに過ぎないということを強く自覚させられます。

生きている人は須く皆えらいと思いますが、生きるのを辞める選択を取った人がえらくないということを示すものではありません。僕も死の淵の手前に行った時のことを思い出すと、きっとその違いは思っているより僅差になっていて、ほんのわずかな違いしかないのだろうと感じます。それでも、そのわずかな違いの結果亡くなってしまったら、お話することも、大事にすることも、何もかもできなくなってしまいます。

そう、生きている人だけを大事にすることができるのです。人との別れは死別だけではなく、転校で離れた友人や、高校卒業から連絡を取っていない友人、大学を卒業して疎遠になりかけている友人、連絡することが減った結婚している先輩、様々な理由から人と人は離れていきます。でも生きている限りなんらかの方法で大事にすることができます。亡くなってしまったら、大事に思うことしかできません。何も伝わらなくなってしまうのです。

僕はずっとずっと伝えなかったという後悔があり、もっともっと遊んでおけば、もっともっと会話をしていたら何かが変わったかもしれないという叶わない願いがあり、それらを今も抱え続けながら生きています。これは向き合い続けるとかそういうレベルの話ではなく、向き合えなくても抱えて生き続ける。それは何の意味もないけれど、それでも僕は生き続ける。そういう解釈をしています。

以前は生きることに何らかの意味を見出して、希望があれば生きていけるとか、最後まで生き残ったやつが強いとか色々なことを考えていました。しかし最近は生き続けることはこれまで述べてきたように単なる幸運の積み重ねで生きるのを辞めるのとそれほど差があるようには思えないので、理由や意味や意義はなく、単に純粋に生き続けるというのは生き続けるということであって、それ以外の意味はないのだろうと思います。

さらに、生きている人しか大事にできないのだから人と積極的に関わろうという気持ちになります。もっと遊んだり、もっと楽しいことをしたりしたい。大切なことは大切だと表現すべきだし、いつか話をしてみたい人とはなるべく早めに予定を立てて会いに行くべき。そういったことをここ数年は強く意識しています。

それでもたまにこうした夜にふと様々な後悔を思い出します。僕が生き続けることが弔いになるわけでもないし、生き続けることはそれ以上の意味を持たないとは思うけれど、やはり今大事に思うものを大事にして生きていくことしかできないんだという無力感と共に、やっぱり大事に思うことは大事だと叫んで生きていきたいと思います。