人生の勢いを失うことを成熟と表現したくない

年々人生の勢いが衰えているように感じます。これはきっと分類すればなんちゃらクライシス的なものになるのだろう、きっとこれは客観視すれば時間が解決する一過性のものなんだろう、哲学ではなく時間と環境の変化が解決するタイプの感情なんだろう、そう思います。でもこの瞬間にしか言葉の結晶にならないものがあって、それはきっと時間によって感情が解決されると共に消えてしまうものだと思うので、ちゃんと書いておきたいと思います。

人生の勢いを失って、口先だけの人間になっている気がしてしまっている話をします。

ぬるま湯の幸せ

僕は今でもずっと一番自分が何かに没頭していたのは中学3年生の夏だと思っています。人生の中で一番没頭できたと思う瞬間を味わって、それがある程度の成功体験につながると、それ以降その人生にはベンチマークとしてその瞬間が現れるようになります。果たしてそれが健全なことなのかは分からないけれど、成長速度の上限が過去に規定されるのはなんとなく嫌です。今昔よりできることが増えたなら成長をサボっていいのか?楽な方法で目の前の課題を解決できるようになったら手を動かす優先度を下げていいのか?結局、僕はいつだって成長速度を更新したい、更新できなくてもいいけど、更新するために考え続けて動き続けたい。その時その時の精一杯で目一杯を尽くしたいのだろうと思います。

割とこの考え方は 強迫観念駆動人生へ愛を込めて - しんぶんぶん で述べられているものに近いな、と最近気づきました。とはいえ僕の場合ここまで激しいものではなく、「成長速度が一番大事」と頭で思いつつも手は動かしていない、口先だけの状態になってしまっていることも多かったのでした。

コンピュータの勉強について考えると、それこそ学び始めた2018年, 2019年頃は何もかもが新鮮だったので手当たり次第にチャレンジして時間を湯水のごとく費やしていました。その結果インターンに行けて、就職できて、仕事は楽しくて、だんだん人生が幸せな方向に向かっているのを感じます。

ただ、それが自分の哲学と合致するかはまた別の話です。満たされるごとに飢えることも減っていき、コンピュータの勉強をして最強にならなければそこで終わりという考えになることも減ります。精神的には安定するけれど、果たしてそれはいいのだろうか?人生の勢いを失って笑顔で人生を送っていいのか?その幸せはぬるま湯じゃないのか?

そういったことを最近考えるようになりました。

解決策はないけれど

感情のスナップショットを取りたかっただけなので解決策とか、こうしたらよくなったみたいな話はないです。でもいくつか大切にすることがあります。

フットワークを軽いままで保つ

成長のサイクルに限って言えば、チャンスを掴むためにいつでも動けるようにしておいた方がいいなと感じることが多いです。軽い興味で吹っ飛んでいくような状態を保ちたい。

できないことをやる

自分の無力さを痛感した時の悔しさは成長するための燃料になります。今は優先度順にやることを決めていて、そうなるとできることの優先度が高くなってあまり解像度の高くない分野はいつまで経ってもBacklogに置かれたままになりがちです。できないことにぶつかっていかねばと思います。

正面から破壊する

詰まるところ僕は今の僕自身がもっと良くなると思い続けているのかもしれないと思っていて、そのために正面から嫌だなあと思うことを破壊しに行かないとなと思っています。それは自分がずっと過去に囚われていることなのかもしれないし、分かったふりをしている時の自分なのかもしれないし、手を動かさずに解釈をする自分なのかもしれないけれど、とにかくそれを破壊できればまた違う見え方のする世界に行けるのだろうと思います。