時に勉強を後回しにする賢さ

割と素直な子供だったので、親の言うことはよく聞いていたのを覚えている。特に、「先取りして学習すれば貯金ができて後で楽をできる」という価値観は個人的に今も昔も正しいなと思っていて、学校の勉強を先取りしたり、こうして社会人になってからも休日にプログラミングの勉強をしている。苦労の前借りのおかげで、一旦軌道に乗りさえすれば、ギリギリで生きている感覚はなくなる。

ただこうして休日にプログラミングの勉強をしていると何かを失っているのも感じる。時間は固定された箱のようなもので、詰められるものは限られている。外に遊びに行く機会が少なくなったり、今自分が長期的に興味を持っているプログラミングとかの話題以外の分野の情報を取りこぼしていたり。

ただ、自分が間違ったことをしている感覚はなく、戦略的には割と正しく生きているように思う。

本当にそうか?と考え続けて色々な人のブログを読み続けて、今のところ得た結論を書く。

自分のバックグラウンドから形成される価値観は強烈に人生に作用する

僕は一生ゲームする人生と、一生勉強する人生のどちらかを選ぶとしたら迷わず勉強する方を選ぶくらいには勉強が好きで、ゲームが苦手だと感じる。実際のところゲームにも勉強要素はあるしその逆もそう。ただ個人的な感覚として、関わりのある世界が閉じられていなくて、広い世界に対する成長を得られる気がするから勉強が好きなのだろうと思う。そういう意味ではゲームの世界大会とか見ると世界の広さを感じるのでゲームに対していつも抱く感覚とは別の気持ちを得る。ポケモンユナイトの世界大会はマジでアツかった。

今回はこの「勉強」とか「成長」というキーワード自体が僕自身のバックグラウンドに起因していることに注目する。小さな頃から納得して選び取ってきた価値観は、環境から与えられたもので刷り込まれている要素もある。そして、バックグラウンドから形成される価値観に基づいて、割と無思考に良い悪いの判定が走る。

つまり、僕は休日に勉強をすることに対して、考えて良いと思っているのではなくて自身の持つ価値観に基づいて良いと判定を下している。

更新されない染み付いた価値観によって、気づかないうちに自身への嘘が通る

人それぞれに惰性が存在し、それによって行動には制約がかかる。一日の多くは惰性による行動で埋められていて、僕の場合はなんか無意識に技術記事を読んだり、音楽を聴いたりしていることが多い。

惰性を無くして意志を込めた行動で日常を埋め尽くそう!と思ったときもあったし、タスク管理や日常の行動ログを取ってみたりもしたけどそんなに大きな変化はなかった。タスク管理によって何かを忘れることはかなり減ったのは良かったけど。結局、惰性は変えられない大きな力で、抗うことは難しい。

ただ、価値観によって「勉強して成長することはいつでも良いものだ」と判断が下っていることに気づくと嘘が見えてくる。僕が勉強しているのは何のためかというと何のためでもなくてただ楽しかったり惰性だったりだからだ。本当に勉強して成長することが良いものなのかはその状況によって変わるのに、価値観による無意識の判断は無思考でそれを良いものとする。惰性で勉強をしているだけのことを、これは成長のためで良いものだから、と自分を正当化する。

フラットに見つめることが大切で、惰性でやっていることで世の中や価値観が良しとするものをやり続けてしまって自身もそれを良いと思うことにしてしまうのは、あまり賢いとは言えない。

人と違う力が行動に対して働く時、歪さが生まれる

とはいえ惰性で勉強できるってすごいことなんじゃない?と思うところもある。ほったらかしにしててもなんかコロコロ考えたり知識を貯めたりするし、先を見通して行動しようと頑張ったりするのは長所だと思う。

その行動の源泉は価値観から来る惰性というのはもう話したけれど、その価値観と行動によるループにより強化される人間性は、「勉強することが苦ではない」という点で他の人と違いが出てくる。

もちろんその違いを活かしてうまく立ち回っていけばいいとは思いつつ、同時に僕が「遊びが苦手」という点も表裏一体になっていて、そこのバランスを取りに行くのは歪さの解消に繋がるんだろうなと思っている。

このあたりが健康的な人間性みたいなものに近い概念なのかな。歪さは違いになるから大切にしつつ、大きく外れていくと歪さが大きくなって健康的な人間性を失うみたいな文脈。

フラットに見つめる賢さ

結論として、社会人は仕事が大事!とか、年齢に沿ったライフステージ!とか、そんなものどうだっていいのかもしれないと思う。そういった世間や自身も納得する感覚を一旦切り離してみて自分にとって大切なことを考え直した時に、大学生が研究を放り投げて友人と夜な夜な飲み会を開いたり、社会人が数ヶ月くらい勉強も成長も諦めて最低限の仕事をしつつ趣味に打ち込むみたいな、いやちゃんとしなさいよみたいな行動が真に肯定されることもあるだろうと思う。

これまでも大学の時のサークルでの体験や、社会人になってからの経験から、遊びの要素が自分には足りないなと繰り返し感じていたけど変えられなくて、それは染み付いた価値観が無思考で判断した結果、行動が制約を受けていたことが原因の一つなのかもしれないな、と思ったのでした。