絶えず流れる渦から距離を置く
SNSをぼんやり見たり、YouTube shortをついついとスクロールしていたら、いつの間にかこんな時間になっていることがある。やってしまった、あちゃーと思うことも少なくなった。何となくそういった現実を受け入れて何の感情も湧かなくなっている自分がいる。少なくとも、たくさん動画を見れて最高!みたいな気持ちになったことはない。
呪術廻戦の割と初めの方で、五条悟というキャラクターが敵キャラに領域展開するシーンがある。無量空処というその技は、相手に情報を浴びせて思考の前段である知覚や伝達を永遠に強制することで、思考を止めて行動不能にするようなもの。別の作品で、チェンソーマンに登場するコスモは宇宙の全てを相手に理解させることで、思考を上書きして相手はハロウィンのことしか考えられなくなるという技を持つ。
作品を読んでいる時はおもしれ〜と思っていたけれど、よくよく考えると似たようなことは日常的に起きているのかもしれない。
SNSでテキストをひたすら脳に流し込んでいる時、YouTube shortでどんどん面白動画を見ている時、それは「自分の思考」を行っていると言えるのだろうか。どちらかというと無限に情報の湧き出る渦の側で、口を開けて情報を摂取し続けているだけのような気がする。そうして自分で考えることをやめている一方で、「何か面白いことないかな〜」と日常をつまらないものだと言う。
インターネットのおかげで情報を扱える範囲が広がった。インターネットを知らない人にとっての世界の半径を大幅に拡大する。そうして広い世界を知った状態で賢くなった気持ちになる。世界の半径の大きさが、そのまま人の知性の高さだと錯覚する。
世界が広がることは純粋に楽しいものだから、どんどん広げていくことに対する嬉しさを感じてしまう。そのうちに広げることに対する刺激が飽和してしまっても、惰性から広げる行為をやめられない。そのうち、何の感情も湧かなくなっても情報を摂取し続けて、いつか宝くじが当たるように面白い情報を引き当てることを期待する。
そうなった時、もはや知性の高さなど残ってはいないだろう。餌が出てくるレバーをガチャガチャやっている動物と相違ない気もする。
絶えず流れる渦から距離を置くことが必要なのだろうと思う。静謐な場に身を置くことは難しい。自分なりの考えを深めるのは体力も気力も必要になってくる。渦から離れただけで直ちに自分の考えを深められるわけでもない。
それでも、絶えず流れる渦から距離を置くことで少しだけ頭のリソースに空きを作れるような気がする。
僕はいつしか小説を読まなくなって、技術書もあまり読まなくなって、AIに質問して満足するようになった。何か中身のある情報、と自分が思えるものが即座に手に入らないことに対して改善しようと思うようになった。中身のある情報が絶え間なく流れてくる状態を理想的だと思うようになった。
しかしそれは世界の半径を見かけ上拡大することにのみ特化していて、自分の頭で考える負荷をかけずに知性をスケールしようとするような行為だと思う。本物の知性というのはもしかしたら世界の半径と同一で、それはAIによって置き換えられるのかもしれないが、僕は今の僕に対して静謐な時間が足りないと感じている。
味の薄い食べ物も味の濃い食べ物も食べよう!みたいな結論になってきた。情報密度は高い方がいいと思ってきたけれど、情報の渦から身を遠ざけることがなんとなく今の自分に必要な気がした。ただそれだけのことかもしれない。